後で、奴隷に聞いて、意外だったのが「立っているのが辛い」ということでした。
そう言えば、奴隷達が座る時間はありませんでしたね。
あまりにも、自然過ぎて気付きませんでした。
今回改めて思ったのは
不快に感じて、呼び出して動くのでは遅い。
ということです。
グラスが空になってしまったら、近くにいる奴隷に「ちょっと」と言えばグラスは満たされますが
注意する前の時間、注意すること、注意してから行動が完了するまで
は不快の状態の時間です。
声をかける前に気付いて行動しないとなりません。日頃から空になる前に注げとは注意しているのですが、徹底できていなかったので、見直すべきですね。
普段、家でも「お前」と呼ぶ時は腹立たしいです。
呼ぶという手間をかけさせられているわけですから。
私が連れた奴隷達が、
あなたのとこの奴隷はものを渡す時に両手で渡してエライね、躾てあるのね。と誉められたのですが
そこで躾について気付いたことがあります。
奴隷に対して「こうして当たり前」と思うことがいくつか自分の中にあるということです。
両手で渡すのも、グラスが空く前に注ぐのも当然で、奴隷がそうしていても私は「よし、できているな」とも気付かないと思います。
なので、今回、奴隷達が立ちっぱなし、ということに気付いてもいませんでした。
言われてみれば、確かに座る暇もなかった。
後ろや脇や壁際で立って、指示を待つ時間もあったのでしょうけど、視界にすら入っていませんでした。
奴隷の存在を感じるのは、できている時ではなく、できていない時です。
もし、奴隷が座り込んだりしたならば、私は気付いて叱りつけるでしょう。その存在に気付きます。
しかし、立っている限りそれは自然なことなので、意識に入ってきません。
誉める時は、当然、を越えた時です。
当然ができないことの方が多く、それを満たした上で越えることは、なかなか起きないので、私はどうしても加点に腰が重くなりました。